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高齢独居という名の静かな腐敗—高齢者の社会性が崩れていく光景


■ 僕は高齢者になりたくない──いや、正確には「こういう高齢者」になりたくない。


正直に言う。僕は“高齢者になりたい”と思ったことがない。


介護やリハビリの仕事をしているが、「高齢者が好きだから」続けているわけでもない。


むしろ、彼らの行動に戸惑い、腹が立ち、呆れる瞬間のほうが多い。

もちろん人生の先輩として敬意は払う。

だがそれとは別に「なぜそうなる?」と首をかしげる場面があまりにも多いのだ。


独居になり、社会と静かに離れていく。その過程を見るたび、他人事ではないはずなのに、どこか怖さがこみ上げる。


僕が高齢者になりたくないのは、

年齢ではなく、老いを理由に配慮を捨ててしまう“あの感じ”が耐えられないからだ。


ただ、それは高齢者だけの問題でもない。


若いころから周囲への視線が欠けていた人が、年齢を重ね、社会との接点を失い、最後は“自分だけのルール”で動くようになるだけ。

年齢より、その人の習慣が露わになっているにすぎない。


そうした行動が日常に滲み、見るたびに嫌悪と不安が入り混じる。

あるいは――「自分もいずれああなるのか」という恐怖なのかもしれない。


老いの実態は、残酷で、滑稽で、そしてどこか悲しい。

そして何より先に崩れるのは、足だの腰だの身体的なことでなく


“社会で生きる感覚”だと痛感している。



■ 他人の車に手を置き、サイドミラーを支えに歩くという不可解さ


リハビリで高齢者と一緒に外を歩くと、度々目にする光景がある。


他人の車のサイドミラーに手をかけ、まるで自分の杖の延長のように扱う姿だ。


車がへこもうが傷つこうが、そんなことは一切頭をよぎらない。

ミラーが折れそうになっても気にせず、重心を預けて、

そこに「自分が寄りかかる場所があった。」という事実だけを頼りに歩いていく。


その瞬間、周囲の風景がすっと冷たくなる。

誰のものかもわからない物を勝手に支えにする行為には、無自覚な“横取り”が潜んでいる。そしてそれは、老いのせいではなく、“配慮の欠落が長い年月を経て固まった結果” にしか見えないのだ。


僕もこうなってしまうのか。



■ 障がい者や足の悪い人に道を譲れないという、社会からの後退


もっと不可解なのは、明らかに自分より歩くのが困難な人とすれ違う時でさえ、

道を譲らない高齢者が一定数存在することだ。


杖をついている人や、歩幅が極端に狭い人が前から来ても、

“あたかも自分こそが道の中心であるべきだ” という顔で進んでくる。


「譲る」という行為は、難しい技術でも気負う礼儀でもない。

ただ半歩、横にずれるだけだ。



なのに、たったその半歩が動かない。



固まった足というより、固まった意地なのかもしれない。

その姿を見るたび、胸の奥がざらつく。

年齢を重ねて社会との距離が広がるほど、人は人に譲れなくなるのだろうか。


自分の中の意地にさえ譲れなくなってしまうのだろうか。


僕もこうなってしまうのか。



■ 道を譲れない高齢ドライバー、歩行者を無視する車。僕が感じた苛立ちと哀しみ。

車の運転でも同じだ。高齢のドライバーに煽られたことがある。

こちらは制限速度で走っているのに、後ろで車が蛇のように揺れ、

まるで「どけ」と怒鳴っているようだった。


交差点で歩行者が渡ろうとしていても、平然と突っ込んでいく高齢ドライバーを何度も目の当たりにした。


“自分のペースを乱されたくない” という欲求だけで世界を押し通す運転は、

ただ危険というだけでなく、どこか哀しい。


社会に対して心を閉じてしまった人の、行動の末路を見るようで。


怒りよりも虚しさが残るのは、

「年齢」ではなく「他者への視線の失われ方」を目撃してしまうからだ。


僕もこうなってしまうのか。



■ 独居と老いと「社会性の喪失」の関係


独り暮らしの高齢者を多く見ていると、

彼らが自由である一方で、社会の中で少しずつ“孤島化”していく過程も同時に感じる。


誰とも関わらず、誰にも見られず、誰の期待もない環境に長くいれば、社会に合わせる理由はどんどん失われてしまう。

気づけば、自分中心の視界だけが残り、周囲への配慮という習慣は静かに消えていく。


年齢を言い訳にしなくてもいい。

ただ、社会と離れる時間が増えるほど、

人は「自分の世界のルール」でしか動けなくなる。



その姿は、見ていて本当にしんどい。



この「しんどい」は目の前の高齢者と、

高齢になった未来の自分へ向けられたものか。



■ だからこそ、社会とつながり続ける「場」が必要だ

こういった現実を見るたびに思う。

結局、人が社会性を保つには、“他者と触れ続ける場所” が必要なのだと。


リハビリでも、買い物同行でも、外出支援でも、誰かと歩き、誰かと話し、誰かと視界を共有する時間があるかどうかで、人は驚くほど変われるのではないか。


独居であろうと、高齢であろうと、人が社会とつながる術はいくらでもある。

ただ、そのきっかけを誰かがそっと用意しなければ、日常はどんどん閉じていく。


僕は、その「閉じていく日常」に、静かに風穴をあける存在でありたい。


社会と適度に繋がるための、ほんの小さな入り口として。

 
 
 

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