高齢独居という名の静かな腐敗—高齢者の社会性が崩れていく光景
- hitomisirigeinin
- 14 分前
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■ 僕は高齢者になりたくない──いや、正確には「こういう高齢者」になりたくない。
正直に言う。僕は“高齢者になりたい”と思ったことがない。
介護やリハビリの仕事をしているが、「高齢者が好きだから」続けているわけでもない。
むしろ、彼らの行動に戸惑い、腹が立ち、呆れる瞬間のほうが多い。
もちろん人生の先輩として敬意は払う。
だがそれとは別に「なぜそうなる?」と首をかしげる場面があまりにも多いのだ。
独居になり、社会と静かに離れていく。その過程を見るたび、他人事ではないはずなのに、どこか怖さがこみ上げる。
僕が高齢者になりたくないのは、
年齢ではなく、老いを理由に配慮を捨ててしまう“あの感じ”が耐えられないからだ。
ただ、それは高齢者だけの問題でもない。
若いころから周囲への視線が欠けていた人が、年齢を重ね、社会との接点を失い、最後は“自分だけのルール”で動くようになるだけ。
年齢より、その人の習慣が露わになっているにすぎない。
そうした行動が日常に滲み、見るたびに嫌悪と不安が入り混じる。
あるいは――「自分もいずれああなるのか」という恐怖なのかもしれない。
老いの実態は、残酷で、滑稽で、そしてどこか悲しい。
そして何より先に崩れるのは、足だの腰だの身体的なことでなく
“社会で生きる感覚”だと痛感している。
■ 他人の車に手を置き、サイドミラーを支えに歩くという不可解さ
リハビリで高齢者と一緒に外を歩くと、度々目にする光景がある。
他人の車のサイドミラーに手をかけ、まるで自分の杖の延長のように扱う姿だ。
車がへこもうが傷つこうが、そんなことは一切頭をよぎらない。
ミラーが折れそうになっても気にせず、重心を預けて、
そこに「自分が寄りかかる場所があった。」という事実だけを頼りに歩いていく。
その瞬間、周囲の風景がすっと冷たくなる。
誰のものかもわからない物を勝手に支えにする行為には、無自覚な“横取り”が潜んでいる。そしてそれは、老いのせいではなく、“配慮の欠落が長い年月を経て固まった結果” にしか見えないのだ。
僕もこうなってしまうのか。
■ 障がい者や足の悪い人に道を譲れないという、社会からの後退
もっと不可解なのは、明らかに自分より歩くのが困難な人とすれ違う時でさえ、
道を譲らない高齢者が一定数存在することだ。
杖をついている人や、歩幅が極端に狭い人が前から来ても、
“あたかも自分こそが道の中心であるべきだ” という顔で進んでくる。
「譲る」という行為は、難しい技術でも気負う礼儀でもない。
ただ半歩、横にずれるだけだ。
なのに、たったその半歩が動かない。
固まった足というより、固まった意地なのかもしれない。
その姿を見るたび、胸の奥がざらつく。
年齢を重ねて社会との距離が広がるほど、人は人に譲れなくなるのだろうか。
自分の中の意地にさえ譲れなくなってしまうのだろうか。
僕もこうなってしまうのか。
■ 道を譲れない高齢ドライバー、歩行者を無視する車。僕が感じた苛立ちと哀しみ。
車の運転でも同じだ。高齢のドライバーに煽られたことがある。
こちらは制限速度で走っているのに、後ろで車が蛇のように揺れ、
まるで「どけ」と怒鳴っているようだった。
交差点で歩行者が渡ろうとしていても、平然と突っ込んでいく高齢ドライバーを何度も目の当たりにした。
“自分のペースを乱されたくない” という欲求だけで世界を押し通す運転は、
ただ危険というだけでなく、どこか哀しい。
社会に対して心を閉じてしまった人の、行動の末路を見るようで。
怒りよりも虚しさが残るのは、
「年齢」ではなく「他者への視線の失われ方」を目撃してしまうからだ。
僕もこうなってしまうのか。
■ 独居と老いと「社会性の喪失」の関係
独り暮らしの高齢者を多く見ていると、
彼らが自由である一方で、社会の中で少しずつ“孤島化”していく過程も同時に感じる。
誰とも関わらず、誰にも見られず、誰の期待もない環境に長くいれば、社会に合わせる理由はどんどん失われてしまう。
気づけば、自分中心の視界だけが残り、周囲への配慮という習慣は静かに消えていく。
年齢を言い訳にしなくてもいい。
ただ、社会と離れる時間が増えるほど、
人は「自分の世界のルール」でしか動けなくなる。
その姿は、見ていて本当にしんどい。
この「しんどい」は目の前の高齢者と、
高齢になった未来の自分へ向けられたものか。
■ だからこそ、社会とつながり続ける「場」が必要だ
こういった現実を見るたびに思う。
結局、人が社会性を保つには、“他者と触れ続ける場所” が必要なのだと。
リハビリでも、買い物同行でも、外出支援でも、誰かと歩き、誰かと話し、誰かと視界を共有する時間があるかどうかで、人は驚くほど変われるのではないか。
独居であろうと、高齢であろうと、人が社会とつながる術はいくらでもある。
ただ、そのきっかけを誰かがそっと用意しなければ、日常はどんどん閉じていく。
僕は、その「閉じていく日常」に、静かに風穴をあける存在でありたい。
社会と適度に繋がるための、ほんの小さな入り口として。




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